言葉は曖昧です。
それゆえにヤヤコシい――
例えば「家族」という言葉はヤヤコシいのですよ。
誰かと結婚をし、
――家族になった。
という場合と――
ある日、子供が生まれ、
――家族がふえた。
という場合とでは――
かなり意味が違います。
「家族になった」という場合には、関係性としての家族が強調されており――
「家族がふえた」という場合には、構成員としての家族が強調されています。
簡単にいってしまうと――
関係性というのは約束のことで、構成員というのは人物のことです。
まったく違う概念ですよね。
にもかかわらず、同じ「家族」という言葉で指し示す――
だから、ヤヤコシいというのです。
ところで――
僕が、このヤヤコシさに気づいたのは、学校で「family」という英単語の用法を習ったときでした。
(「family」ってヤヤコシいな~! 要は家庭のこと? 肉親のこと?)
と思ったのがキッカケなのですね。
概して「My family is ...」と単数形でいえば「家庭」のことで、「My family are ...」と複数形でいえば「肉親」のことなのですが――
まあ、ヤヤコシい――(笑
(これだから英語はつまんない!)
などと思ったりしたものですが――(苦笑
実際には、「家族」という日本語も、同じくらいにヤヤコシかったわけです。
こういうことには、日本語だけを使っていたのでは気づきません。
だからこそ、
――外国語を学ぶ意義は、母国語を深く学ぶことにある。
などと極論されるのですが――
まあ――
言葉というものは、元来、どうしようもなく曖昧なものなのです。
あまりにも曖昧なので――
どんなに言葉を学び込んでも、すっかり学び切るということがない――
言葉が好きな人は、その曖昧さが好きなのでしょう。
また――
こうもいえます。
――言葉の達人とは曖昧な言葉を曖昧なままに使いこなす人である。
と――