価値観や世界観が違う人、違う環境に生まれ育った人――
そういう人たちと話をしていて明確にみえてくることは、自分自身のことです。
自分自身の価値観や世界観、自分自身の生まれ育った環境――
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初めに――
僕自身の話をします。
大学院で自然科学を学んでからというもの――
日本人でない人たちと話をする機会が増えました。
自然科学の現場には国境がありません。
国家や民族の垣根が、研究分野の垣根よりも低く感じられるくらいです。
そのような現場に、ほんの数年も身をおくと――
不思議なことに、日本人でない人たちと話をすることが、大して特別なことには思えなくなるのですね。
むしろ、きわめて日常的で、ありきたりのことに思えてくるのです。
それが、自然科学に携わり醍醐味の1つなわけですが――
意外なことに――
その実感は、自然科学の世界を離れても同じでした。
今の日本は20年前とは違います。
日本の国内にいながらでも、日本人でない人たちと出会う機会が、かなり豊富にあるのです。
それだけ多くの外国人が留学や就業に来ているということですね。
日本人でない人たちと話をすることで、自分自身のことが明確にみえてくるようになると――
ときどき、妙に気になってしまうことがあります。
自分自身のことが明確にみえていない人たちの存在です。
自分自身の価値観や世界観、自分自身の生まれ育った環境などが、みえていない――
例えば――
日本人が社会全体で漠然と共有している価値観や世界観、あるいは日本社会という環境に生まれ育ったという事実がもたらすこと――
そういったことに無頓着な日本人などですね。
そういう日本人たちは、おそらくは絶対的な視点――きわめて日本的な視点――から、世の中の出来事をとらえているに違いありません。
すると――
そこに、深刻な――しかし、露見しにくい――社会的相克が生じえます。
絶対的な視点の持ち主たちと、そうではない視点の持ち主たち――相対的な視点の持ち主たち――との相克です。
この種の相克は、近年のアメリカなどでは殊に激しくなっているらしく――
日本に来ているアメリカ人などの話をきいていると――
その相克が、近い将来、アメリカの社会を衰退させる一因になりかねない、とのことです。
他山の石ではありません。
日本でも、現在、同じようなことが起こりつつあるように思います。
日本人でない大勢の人々――多くの非日本人――が、日本で学び、日本で働くようになれば――
そうした人たちと密に触れ合う日本人の数は、飛躍的に伸びていくでしょう。
そうなれば、相対的な視点を獲得する日本人の数も飛躍的に伸びていくことになります。
近い将来に、日本的な事物を絶対視する人たちと相対視する人たちとの間で、激しい争いが起きるかもしれません。
日本の国内に、多くの非日本人が住み着いている現状を指摘した上で、日本人と非日本人との対決の先鋭化を危惧する声が、よくきかれます。
が――
より注意すべきは、絶対的な視点の日本人と相対的な視点の日本人との対決のように思います。