マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

優れた詩人の言葉をきいていると

 言葉というものは――
 使っているうちに、しだいに重くなっていくものではないかと、思っております。

 例えば、「しあわせ」という言葉に感じられる重みは――
 10代の少年と50代の壮年とでは、かなり違うのではないか、と――

 あるいは――
 抽象画を得意とする画家と叙情詩を得意とする詩人とでも、かなり違うのではないか、と――

 もちろん――
 10代の少年よりは50代の壮年のほうが重く感じられるだろうし――
 抽象画を得意とする画家よりは叙情詩を得意とする詩人のほうが重く感じられるのではないか――
 ということが僕はいいたいのですが――

 これは――
 ちょっと考えると、かなり奇妙なことです。

 試みに――
 いま「しあわせ」がテーマで1枚の絵画が描かれたとしましょう。

 その絵をコンピュータに取り込むとします。
 すると、データの量としては膨大なものになりますね。
 少なくとも「しあわせ」という言葉をコンピュータに取り込む場合とでは、桁の違う情報量になります。

 にもかかわらず――
 ここに逆転が起こりうるのではないか――
 ということを、僕はいいたいのです。

 10代の画家が描く「しあわせ」の絵画よりも、50代の詩人が語る「しあわせ」という言葉のほうが、より多くの情報量を担う――
 そういうことも、ありうるのではないか、と――

 優れた詩人の言葉をきいていると――
 ときに、そんなことを思うのです。