生きていれば――
幻滅をすることが山ほどあります。
人生は幻滅の連続であるといっても、よいかもしれません。
幻滅の対象は様々です。
人であったり、物であったり、事であったりするでしょう。
むしろ、
――およそ幻滅の対象たりえないものはない。
といったほうがよいでしょう。
僕らの日々の暮らしの中が幻滅であふれている理由は――
おそらく、僕らの心が、ささいなことで、しょっちゅう幻想を作り出してしまうからです。
それは、ヒトの脳の性質といっても、よいのかもしれません。
その性質の裏返しとして、僕らの心は、毎日、多くの幻滅を経験し続けているに違いない、と――
幻滅が僕らの日常であるならば――
僕らは幻滅の向こう側に何かを見出さねばなりません。
毎日、幻滅が連続しているだけでは、前向きに生きるのは難しい――
幻滅の向こう側にあるのは何か――
希望か、落胆か――
悲哀か、狂喜か――
それとも――
何もないのか――
何かを見出してはいけないのか――
最近の僕は、
(何も見出さないほうがいい)
と思っております。
仏教思想的にいうならば、
――無を見出す。
ということです。
何かを見出しても――
それは新たな幻滅に変わるだけでしょう。
幻滅の連続はツラいだけですよね。
幻滅の向こう側に希望を見出し――
それが、すぐに幻滅に変われば――
幻滅の連続は終わりません。
だから、「無」を見出す――
幻滅の連続を断つのは、「無」という名の諦観であり――
それが、
――達観
なのだと思います。