マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

小説の手直しは外科手術のようなもの

 ある短篇小説を読んでいて――
 辟易としました。

(おなかイッパイ……)
 と――

 短篇なのに、あまりにも多くの設定を盛り込みすぎていて――
(もういいよ)
 と思ったのですね。

 けっこう技巧的な書き方になっているので――
 そういうのが好きな人は、高く評価するのかもしれません。

 が、僕は低く評価せざるをえませんね。
 設定の多さが読者に無用の負担を強いている、と感じるからです。

 では――
 どのように手直しをすれば僕の評価が上がるのかといえば――
 これが、なかなかに難しいのです。

 もちろん、原理的には難しくないのですよ。
 多すぎる設定を減らし、もっと単純な舞台をこしらえて、そこで物語を展開させればよいのですが――
 そうは簡単にはいかないのです。

 手直しをすれば、その分、作品の特徴が弱まります。
 特徴が弱まれば、良さも半減するのです。
 どんなに慎重になっても、慎重になりすぎることはありません。

 小説の手直しは外科手術のようなものです。
 外科手術を受ける人の体は、深刻な病気を患ってはいても、それまでは何とか独力で生きていける状態にあります。
 その体に、本来は付けられるはずのない傷を付けるのが、外科手術なのです。
 したがって、医師が外科手術を試みるのは、その手術のメリットが傷を付けるデメリットよりも大きいと判断したときのみです。

 それと同じように――
 どんな小説であっても――たとえ、それが深刻な欠点を持った作品ではあっても――その小説は、それだけを読んでも作者の当初の意図が一応はわかるように書かれています。

 その意図を、多少なりとも歪めるのが手直しです。
 手直しをしたほうがよいときというのは、手直しをするメリットが作者の当初の意図を歪めるデメリットよりも大きいときのみです。

 そういうケースは、そう多くはありません。

 手直しをするくらいなら、すぐに書き直したほうがよいくらいです。