自然科学的な文脈で、
――A は B である。
と述べるときに――
そのように述べる者は、なぜ「A は B である」といえるのかについても、常に説明しようと努めています。
そうでなければ、自然科学的な説得力をもたせられないからです。
この努力の姿勢こそが、自然科学的な説得力の根幹であるといっても過言ではありません。
つまり、
――A は Bである。なぜならば、C が D であるからだ。
と主張する場合に――
より本質的なのは、「なぜならば、C が D であるからだ」の部分であって、「A は B である」の部分ではないのです。
ところが、自然科学的な文脈に不慣れな人は、これを取り違えます。
「A は B である」のほうこそ、本質的な部分だと思ってしまうのです。
したがって、例えば、
――血液型は性格とは関係がない。
と主張されたときに、
――あ、そうなんだ。
と思ってしまい――
次の瞬間、
――血液型は性格と関係がある。
と主張され、
――いったい、どっちなんだ!
と怒りだしてしまう――
そんなことが、よくあります。
が――
どちらの主張も――
自然科学的な文脈では、何も述べていないに等しいのです。
自然科学的な文脈では、主張の本質的な部分は「なぜならば――」です。
例えば、
――血液型は性格とは関係がない。なぜならば、そのような関係性を統計的に示唆する観察結果が報告されていないからである。
とか、
――血液型は性格と関係がある。なぜならば、血液型を決定する遺伝物質は脳を含む全身に分布しているからである。
とかいった主張であれば――
これら主張の本質は「なぜならば――」の部分に凝集されています。
「なぜならば――」の部分が、自然科学的な文脈との橋渡し役を担っているのです。
裏を返すと、「なぜならば――」の部分が明示されてさえいれば、仮に主張の中身がどのようなものであっても、自然科学的な文脈との齟齬は生じません。
もちろん――
自然科学では、実験や観察に重きを置かれますから――
推論だけに依拠し、実験結果や観察結果を軽視するような主張は、自然科学的には受け入れられません。
が――
このことと、その主張が自然科学的な文脈に溶け込むかどうかというのは、同じ話ではありません。
よって――
例えば、「血液型は性格と関係する」という主張を自然科学的な文脈で展開することは十分に可能なのですが――
その主張が自然科学的に受け入れられるためには、適切な実験結果や観察結果が必要なのです。