例えば、ヒトの言語を代表させうる具体例として、
1 + 2 = 3
などの単純な計算式を挙げるか、
To be, or not to be: that is the quesiton
などの含蓄ある文芸の一節を挙げるかは――
学界や学界の周辺においては、常に議論になる点でありましょう。
大雑把にいえば――
計算式を挙げるのは理科系の者であり、文芸の一節を挙げるのは文科系の者である、といわれますが――
この図式に従うならば、その前に、何をもって「理科系」とみなし、何をもって「文科系」とみなすかの議論から始めなければなりませんので――
ここでは深入りをしないことにします。
とにかく、こうした観点から、「計算式」派と「文芸の一節」派とにわけることができるだろう、ということです。
「計算式」派は、世の中の神秘は、それを思い切って数値化したり、記号化したりしても、そんなに色褪せることはないと信じています。
一方、「文芸の一節」派は、それを丸ごと手元に持ってきて安置したり、保護したりしないと、色彩の本質的な要素が見失われると信じています。
本当は、どちらも迷信に近いのです。
もう少しいえば――
どちらの立場を採ったっとしても、世の中の神秘には近づけない――
近づいた気分に浸ることさえ、できません。
せめて近づいた気分に浸るには――
どちらの立場も捨てないこと――どちらの立場にも限界があること――
そして――
どちらの立場を採ったところで、世の中の神秘には、そう簡単には近づけないのだということを――
まずは認めるのがよいでしょう。