マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

戦争の記憶は風化しても

 毎年、この季節になると、マスコミを中心に、

 ――戦争の記憶を風化させてはならない。

 という論調が目立ちます。
「戦争」というのは、主に太平洋戦争(大東亜戦争)にまつわる様々な事実――事象・事件・事故・惨事・被災・災厄――のことですね。

 たしかに、できることなら、戦争の記憶を風化させたくはないと思いますが――
(はたして、そんなことが可能だろうか)
 とも思います。

 戦後65年がすぎ、当時の実態を知る人たちは、ほぼ全員が70代以上です。
 しかも、当時から大人の分別を備えていたと思われる人たちに限れば、80代以上です。

 このまま当時の実態を知る人たちが減っていけば、戦争の記憶が風化するのは避けようがないのです。

 仕方のないことです。

 人の命に限りがある以上、戦争の記憶は風化していく――
 どうしても風化していく――

 僕らは、そのことを前提にものを考え、対応していかなければなりません。
 
 大切なことは、新たな戦争を自らの手で起こさないことです。
 戦争の記憶が風化しても、絶対に戦争を起こさないような工夫――そのような工夫を社会全体で重ねていくことが求められます。

 戦争の記憶を、

 ――情緒・情念面

 と、

 ――理念・理論面

 とに分けたら、どうでしょうか。

 戦争体験にまつわる情緒や情念が薄れいくのは、人の社会の必然です。
 個人の情というものは、他者に引き継がせることが、原理的に困難だからです。
「情」は、結局は当人の心の底辺でしか息づきえない――

 守るべきは、戦争体験にまつわる理念や理論でしょう。

 なぜ戦争が起きたのか――その経緯や機序を事実や論理に基づいて体系化する――そして、その体系を次世代へ引き渡す――わかりやすい形で――
 そうすることで、戦争の記憶は風化させても、戦争を肯定しない態度は形骸化させないようにする――
 そうすることが、最も現実的で効果的な対応であろうと思います。