マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

良くも悪くも「虚構の力」

 僕は、

 ――虚構の力

 という概念を大変に重要だと考えております。

 が――
 その重要性は、なかなかに理解されにくいのですね。

 ――つまり、小説とか映画とかも有意義だって話でしょう?

 で終わらされてしまう――

 そうではありません。

「虚構の力」とは何か。

 僕らは、現実を認識する際に、ある種の虚構を通して、その認識を行います。
 例えば、卓上に置いてある直方体の電子機器をみて、その形状から、

 ――小型TVだろう。

 と思うときに――
 その“電子機器”が、実は精巧に作られたお菓子かもしれない――
 ということを考えてみましょう。

 このとき――
 もし、本当にお菓子ならば、「小型TV」は虚構になり――
 もし、本当に小型TVならば、「お菓子」が虚構になります。

 ある種の虚構を通して現実を認識しているというのは、そうした意味です。

 虚構は現実を認識する上で、強力な説明であり、有効な解釈でもあります。
 適切な虚構を構築することで、人は現実に対し、巧くかつ素早く対処することができます。

 が――
 虚構には重大な副作用が伴います。

 それは、

 ――かりに虚構が現実から遊離していても、その「現実から遊離している」ということをスッカリ隠すことができてしまう。

 ということです。

 現実に即した虚構も現実に反した虚構も、十分に巧妙に構築されてしまったら、なかなか区別がつかないのですね。

 小説家は、この副作用を利用し、読者の感動を喚起します。
 煽動家は、この副作用を利用し、民衆の盲動を誘発します。

 それが――
 虚構の素晴らしさであり、恐ろしさでもあるのですね。

 つまり――
 良くも悪くも、それが「虚構の力」なのです。