マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

あえて「画一的」に「啓蒙」をする

 教育という営みは、

 ――あえて画一的に啓蒙をし、その画一性からハミ出る個性をすくいとっていく営み

 かもしれません。

「画一的」も「啓蒙」も、負の印象の強い言葉ですが――
 これら言葉が意味するところは、決して教育の本質を外してはいません。

 教育を受けることによって、人は、知識や理解を共有し、安定した社会秩序をもたらしているのです。
 また、どんな賢人も教養人も、何らかの教育を受ける前は、無知蒙昧に違いなかったのですから――

 いわゆる没個性教育の欠点の実体は、「画一的」な「啓蒙」にあるのではなく、「ハミ出る個性」をすくいとっていない点にある――
 といえるでしょう。

「画一的」に「啓蒙」をすることは、それ自体は悪いことではありません。

 そのほうが効率はいいに決まっていますし――
 何よりも、そうすることで個性がみつけやすくなるのですから――

 絶対に忘れてはいけないことは、

 ――「画一的」な「啓蒙」をすることなしに「ハミ出る個性」をみつけやすくすることは、けっこう大変だ。

 ということです。

 もちろん、不可能ではありませんよ。
 一人ひとりをこまめにみつつ、その都度、密な意思疎通を図ればいいのですから――

 が――
 恐ろしく手間と時間とがかかります。