3月11日の地震の直後に津波が押し寄せて――
僕は、しばらく、勤め先に閉じ込められることになったのですが――
そのときに――
外界からの情報の大半は、ラジオによってもたらされました。
ラジオは電池式です――電気が止まっていましたから――
もちろん、そんなに高性能ではありません。
そのラジオの前で、災害放送に耳を傾けていたのですが――
何日かすると、単なる震災情報だけでなく、しだいに音楽が流れるようになりました。
その音楽をきいていて、ちょっとした異変を感じたのですね。
異変というのは――
僕の心の内の異変です。
僕は、器楽と声楽とだったら、断然、声楽――つまり、曲よりも歌――を聴きたがったのですが――
このときは違いました。
曲を聴きたがったのです。
歌は、むしろ耳障り――
意外でした。
(なんでだろう?)
たぶん――
歌というよりも、言葉が嫌だったのでしょうね。
震災後、間もなくに流された歌です。
当然、その詞は震災前に作られたものでしょう。
詞は言葉です。
そして、心の相当な部分は――少なくとも自我によって意識される部分の多くは――言葉で成っています――
あるいは、言葉で溢れている――
つまり、歌の言葉には、震災前の作詞者の心の内が多少なりとも反映されているのです。
その反映を感じとるときに――
聴者もまた、震災前の自分の心の内が呼び起こされるのです。
――あのときはこうだった。
とか、
――これは、ああいうものだった。
とか――
それが嫌だったのですね。
だって、震災前には、もう絶対に戻れないのですから――
にもかかわわらず、半ば強制的に呼び起こされるのですから――歌を聴くことによって――
これが意外に苦痛なのですよ。
震災前に戻れないことは明らかでした。
それは――
周囲の瓦礫の山をみれば、否定のしようのないことでした。
亡くなった多くの命のことを考えれば、当たり前のことでした。
だから、苦痛だったのです。
一方――
曲には、言葉がありません。
震災前の自分の心の内が強制的に呼び起こされるということがありません。
自発的に思い起こすことはあっても――
思い起こしは、強制的ではないので、そんなに苦痛ではないのですね。
同じように「あのときはこうだった」とか「これは、ああいうものだった」といったことが呼び起こされても――
何ということはない――
自発的だからです。