人の性格は、
――実質的な無駄
に、
――儀礼的な意義
を見出すかどうかで――
大きく2つに分けられると考えています。
ここでいう「実質的な無駄」とは、例えば――
そんなに親しくない同僚が、会社をやめて外国に行く――もう会社にも日本にも戻ってくるつもりはない――
そういう同僚が最後に出社した日に、ちょっとした個人的な挨拶を交わす――
そういうことです。
もう戻ってこないのですから、その同僚に今さら好印象を与えても、実質的な意義は見出せないでしょう。
例えば何年かたって会社に戻ってきて自分を助けてくれるということは、まず想定できない――
が――
それでも、礼を尽くすことで最後に少しだけ良い思いをしてもらうということに、儀礼的な意義を見出すことはできます。
つまり――
人は、つねに実質を儀礼に優先させる人と、そうでない人――ときに儀礼を実質に優先させることがある人――とにわけられる、ということです。
つねに実質を儀礼に優先させる人は、有形を重んじる人です。
事実に基づき、論理的に考え、意識的に判断をする――
その反面、思考が硬直的になりやすく、周囲に冷徹な印象をあたえがちです。
一方――
ときに儀礼を実質に優先させることがある人は、無形を重んじる人です。
人の心の無意識の機微に敏感で、直感だけで判断をするときがある――
その反面、言葉が不足しやすく、周囲に頼りない印象をあたえがちです。
どちらがよいということではありません。
どちらも魅力的な性格になりえます。
どちらにも長所が備わり、短所が潜んでいます。
問題なのは――
ある人がつねに実質を儀礼に優先させているかどうかの判断は意外に難しい、ということです。
例えば――
二度と戻ってこない同僚が、もしかしたら戻ってくることになるかもしれない――
あるいは、自分が外国に行って、そこで再開をし、世話になるかもしれない――
そういう可能性が皆無ではない――
そういうことまで考えて挨拶を交わしているのであれば――
その人は、「儀礼的な意義」ではなく「実質的な意義」を見出していることになります。