年に数回、JR岡山駅を利用します。
近くに母が住んでいるからです。
*
僕は、高校の3年間を岡山で過ごしました。
岡山から隣の広島県の福山市の高校に通っていました。
電車通学でした。
ですから――
僕の岡山駅の記憶は、高校時代の記憶と分けることができません。
38歳になった今でも――
岡山駅のホームに立つと、高校時代を思い出します。
改札で高校生とスレ違うとき、自分よりも20歳以上も年下とは感じません。
同年輩だと感じます。
つまり――
自分も、まだ高校生のつもりでいるのですね。
そんな「つもり」にさせられるのは――
実は、僕にとっては、思いの他に、気分の悪いことなのです。
こう述べると――
不思議に思われる方がおられるかもしれませんね。
――え~、なんで? 高校生気分にかえれるってステキなことじゃない。
と――
僕は反論します。
――ぜんぜんステキじゃないよ。今さら高校生気分なんか味わいたくもない。だって、あの頃の僕は何も手にしていなかったんだから……。
僕にとって、岡山駅は混迷や不安の象徴です。
自分は何者で、どんな能力があって、どんな評価をされて、どんな風に生きていけば世間からツマ弾きにされずに済むのか――
そんなこともわからずに、ただ毎日、自分の将来の心配ばかりをしていました。
迫りくる大学受験闘争の強圧に抗い続ける日々でもありました。
岡山駅のホームに立つとき――
僕は、そういう混迷や不安の心理状態に、今でも追い込まれます。
そのことを――
僕は一つの財産だと考えています。
理由は一つ――
今の自分が手にしている物のありがたみを肌で感じることができるからです。
人は、自分が手にしている物のありがたみを、つい忘れてしまいがちです。
この財産は――
僕が高校を卒業するのと同時に岡山を離れたことと深く関係しています。
もし僕が、高校を卒業した後も岡山にとどまり、経歴を重ね、今の自分と同じような地位を築いていたら――
岡山駅のホームに立ったところで、特段のことは感じないはずです。