マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

社会の構成要素は人間ではなく

 ずっと前から、

 ――社会の構成要素は人間である。

 と、何となく思っておりましたが――

 きょう――
 ふと、
(そうじゃないんじゃないか)
 と思うようになりました。

 構成要素は人間ではなくて――
 人間関係ではないか――
 そう思うのです。

 その辺の定義が学問的にはどうなっているのか、ちょっと横着をしていて、ろくに調べてもおりませんが――
 人間関係が社会の構成要素になるというのは、考えてみれば、当たり前のことではないかと思います。

 一つの街に大勢の人間が集まって暮らしたところで、個々の人間同士が一切の関係性を保持していなかったら――
 そこに社会などは生じるわけがないですよね。

 社会の構成要素が人間関係であるという発想は、社会の危うさの根源を漠然と言い当てているように思います。

 例えば――
 A、B、Cの3人が集まって微小な社会が生じるときに――
 A、B、Cの3人は、常識的には、互いに独立した存在だとみなされますから――
 社会の構成要素が人間であると考えるならば――
 この微小な社会は、互いに独立な3つの構成要素から成り立っていると考えられるのですが――
 もし、社会の構成要素が人間ではなくて人間関係であると考えるならば――
 この微小な社会の構成要素は、

  ABの人間関係
  BCの人間関係
  CAの人間関係

 の3つとなります。

 これら構成要素は、互いに独立ではありません。

 例えば――
 Aの精神状態が深刻に変調したときなどは、「ABの人間関係」が不安定になると同時に「CAの人間関係」も不安定になるでしょう。

 このことは――
 この微小な社会では、3つの構成要素のうちの2つまでが、一気に不安定になりうる――
 ということを意味します。

 社会は、些細な事象を契機に、特定の動向の一気に強まることがあります。

 それを僕は、

 ――社会の危うさ

 とみなしているのですが――
 そうした「危うさ」は、社会の構成要素が互いに独立でないことを前提にすれば、容易に納得できそうです。