マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「大人」談義は観念論ではないか

 思春期を過ぎた人ならば――
 自分は本当に大人なのかどうかについて――
 一度は真剣に悩んだ経験をもっているでしょう。

 自分が大人かどうかなどは、自分では決してわかりませんし――
 そもそも、

 ――大人

 とは、どういう概念なのかを定義すること自体が容易ではありません。

 ですから――
 自分は本当に大人なのかについて、真剣に悩む意義というのは、実は、けっこう少ないと思うのですが――
 それでも、真剣に悩む人は、あとをたちません。

 ですから、世間では、いわゆる「大人」談義というのが、いつも盛んです。

 ――大人とは何か?

 について、皆が考え、議論したがる――

 が――
「大人」という概念は、

 ――幻想だ。

 と、僕は思っています。

 世の中のどこを探しても、「大人」という実体は存在しない――
 存在するのは、個人が抱く心象の感覚としてであり――
 つまりは、「幻想」としてのみ「大人」は存在している、ということです。

 例えば――
 Aという人は、Bという人と仕事上の付き合いがあって、Bを大人だと思っているのだけれども――
 Bは、自分を大人だとは思っておらず――
 Bの配偶者であるCもまた、Bが大人であるとは思っていない――むしろ、Aのほうこそ大人であると思っている――
 そういうことが、しょっちゅうあるだろう、ということです。

 人が「大人」談義をしているとき――
 実際には、自分の心の中の幻想を語っているのです。

 その幻想の中身は、おそらくは、

 ――人としての理想型

 です。

 ――人たるものは、かくあるべし。

 との強い思いです。

 それを、僕は、

 ――人の美しさ

 と呼んでいるのですが――
 そう呼んでしまうと、なかなかにピンとこないところがあります。

「大人」なら、誰もが目指すべき目標――あるいは、満たすべき基準となってしまいますが――
「人の美しさ」なら、そうはなりません。

「大人」なら誰もが論じたがるのですが――
「人の美しさ」なら、そうはならないのです――どこか形而上学的な色彩を帯びてしまう――

 これは何を意味しているのか――

 僕らは、いわゆる「大人」談義に、社会生活を送る上での実利があると思っているけれども――
 実は、そんなものはない――純粋に観念論ではないか――
 そういう疑念を意味しています。