マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

小説の書き方に悩み続けるほうがよい

 小説を書くという行為と文章を書くという行為とが、ハッキリとは区別できていなかった時期が――
 僕にはあります。

 10代後半から20代前半にかけて、です。

 その頃は、「文章を書く」とは、とりもなおさず「小説を書く」ということを意味していました。
 小説以外の文章を書くことを、とくに意識していなかったのです。

 実際には、

  小説を書く = 物語を作る + (物語を)文章で伝える

 であるわけで――

 ということは――
「小説を書く」と「文章を書く」とが混同されていたということは――
「物語を作る」や「(何かを)文章で伝える」に無頓着であったということになります。

 小説以外のものをたくさん書くようになって――
 ようやく「物語を作る」や「(何かを)文章を伝える」という行為を意識するようになりました。

 ここでいう「小説以外のもの」とは――
 例えば、学術的な文章であったり、評論文であったり、随筆文であったり、詞であったり――

 以上のことを10代後半の自分に諭したとしたら――
 どうなるでしょうか。

 例えば、

 ――小説を書こうと思ったら、まず物語を作らないといけない。つまり、物語の作り方を学ばなければならない。その次には、作った物語を文章で伝えなければならない。つまり、文章での伝え方を学ばなければならない。そのためには、物語以外のことも伝えてみなければならない。物語を伝えるだけでは、物語の伝え方の特性を知ることは難しい。

 と説いて聞かせたら――

 たぶん、10代後半の僕は、小説を書くということに興味を失ったでしょう。

 小説を書くということは、

 ――「小説を書く」とは、どういうことか。

 を自問することです。

 その自問が小説を書く欲求の根源となります。

 もし、その自問の機会が奪われてしまったら、小説を書き続けることは、おそらく無理です。

 小説を書き続けるためには――
 小説の書き方に悩み続けるほうがよいのです。