世の中の人々を、大まかに2通りに分けるときに、
――行う者
と、
――表す者
とに分けるやり方があると思います。
「行う者」というのは、例えば、政治家です。
それに対応する「表す者」は、政治評論家です。
政治家が政治評論家のような振る舞ったりすると、必ず非難を浴びます。
――発言だけで行動が伴っていない。無責任だ。
とか――
一方――
政治評論家が急に政治家を志したりすると、軽い嘲弄にも似た警告を受けます。
――自由な立場で学び、考えたことは、現場では役に立たない。
とか――
つまり、「行う者」と「表す者」との立場を交換することは、総じて否定的に捉えられることが多いのですね。
たしかに、その通りです。
「行う者」としての見識や経験と「表す者」としての認識や主張とは、相容れない性質をもっています。
よって、「行う者」と「表す者」との立場を軽々に交換することは、「行う者」としての見識や経験を空費させたり、「表す者」としての認識や主張を空転させることになりかねない――
それは、短期的には、社会にとっての損失といえましょう。
が――
そうであっても、これらの立場を交換することに一定の意義を見出したいと、僕は思っています。
長らく「行う者」であり続けた人にしか表せないことがあるはずです。
あるいは――
長らく「表す者」であり続けた人にしか行えないことがあるはずです。
それら「あるはず」のことが見出されるために、多少なりとも見識や経験が空費されたり、あるいは認識や主張が空転されることは――
長期的には十分に報われうると思うのです。
「行う者」と「表す者」との立場の交換は――
社会を成熟させるための先行投資ではないでしょうか。