人として理想的な言動様式を挙げて――
例えば、
――○○のときは、できるだけ□□しようとし、▽▽の状況では、つねに☆☆を心がけ――
というように、具体的に例を挙げた上で、
――私は、このようでありたい。
と述べることは――
微妙な問題を惹起しえます。
「このようでありたい」ということは、つまり、ある種の願望をいっているのですから――
それら理想的な言動様式は、そう述べている自分も含め、世の中の誰もが、まったく実践できていない、ということが示唆されています。
一方で――
そう述べている自分が、それら理想的な言動様式を多少なりとも実践できていると周囲からみなされている状況が、もし、あれば――
「このようでありたい」という言い回しが、むしろ、嫌味と捉えられかねません。
――はい、はい。たしかに、あなたは偉いと思うよ。
というように――
つまり――
人として理想的な言動様式を挙げて、「私は、このようでありたい」と述べる場合には――
少なくとも、自分の日頃の言動様式が、そのような理想的な言動様式には遠く及ばないことを確信している必要があるのです。
ところが――
あまりにも「遠く及ばない」だと、
――お前がいうな! お前にはいわれたくない!
と罵倒されかねません。
ですから――
本来、人として理想的な言動様式を挙げて、「私は、このようでありたい」と述べることは――
大変に微妙な挑戦なのです。
少なくとも僕ら凡人には、無用な挑戦といって、よいでしょう。