マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

自分の仮説が否定されても、知的興奮を覚えるわけ

 自分の考えていることが裏切られるというのは――
 たいていの場合は不愉快なことですが――

 科学者にとっては、そうともいいきれません。

 自分の仮説が実験や観察によって否定されることに、ある種の知的興奮を覚える科学は、決して少なくないのですね。

 これは、どうしたことでしょう。

 そういう科学者だって――
 例えば――
 たぶん、

 ――あの人は私に気がある。

 という“仮説”を立て――
 試しに夕食に誘ってみるという“実験”を行い――
 その結果、

 ――すでに別の誰かと付き合っていた。

 という事実が判明した場合には――
 知的興奮を覚えないでしょう。

 どこに違いがあるのか――

 一つは、科学の世界では、実験や観察はそう簡単には実現できないということ――
 膨大な時間と作業とが必要で、ときには多額の予算が必要です。

 一方、誰かを夕食に誘うのは、ちょっとした経験と勇気とがあれば――
 すぐに、できてしまいますからね。

 もう一つは、科学の世界で実験や観察が明らかにすることは、通常、世界中の誰もが知らないことだからです。

 これが、たぶん最も大きいでしょうね。

 自分の仮説が否定されたって――
 その仮説の可否は、事前には誰もわからなかったことであり――
 否定されたこと自体が、そもそも新奇性を帯びている――
 そういうことなら、たしかに知的興奮を覚えても不思議はありません。

 誰かを夕食に誘う場合には、そんなことはありませんよね。
 その“仮説”の可否は、少なくとも夕食に誘われる当人やその周囲の人たちには、わかりきったことだからです(苦笑