マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

政治家・人物評

 先日、午前半日の休暇があったので――
 TVで国会中継をみていたのです。

 国会議員の皆さんの審議の場での言動を直に拝見していると――
 報道や評論で飛び交う人物評が、にわかに、
(ホントかな?)
 と思えてしまいました。

 ――優柔不断だ。

 とか、

 ――気配り上手だ。

 とか、

 ――場当たり的だ。

 とか、

 ――決めたらブレない。

 とかいわれますが――
 どれも嘘っぽく感じられるのです。

 もちろん――
 それら人物評が現実の一端をとらえていることは、事実でしょう。

 が、その人物評は――
 その人物評を述べた政治記者や政治評論家の視点からみえる人物像を評価したものです。

 よって――
 それら政治記者や政治評論家に固有の人柄や知識・理解、性向・嗜好、思想・宗教、社会体験・人生経験などが――
 多少なりとも影響を及ぼしています。

 つまり――
 人物評というものは、現実を厳密に反映したものではなく――
 人物評で述べられた人物と人物評を述べた人物との間に築かれた関係性を反映したものです。

 その関係性は――
 人物評で述べれた人物と人物評を述べた人物との間に――
 面識があれば、かなり張りつめた関係性ですし――
 面識がなければ、それなりに緩やかな関係性です。

 政治記者や政治評論家は、多くの政治家と面識があるといいます。
 少なくとも、政治家と面識のある上司や同僚や友人・知人がいる――
 つまり、かなり張りつめた関係性をもっている――

 そうした“張りつめた関係性を反映した人物評”が――
 なぜ嘘っぽく感じられてしまうのか。

 それは、おそらく――
 僕が、国会議員の皆さんとは、誰一人、面識がないからです。

 面識がありませんので――
 僕がTVの国会中継を通して抱く人物評は、かなり緩やかな関係性を反映したものです。

 もっといえば、希薄な人物評ですよ。

 希薄ではありますが――
 僕自身が実感として抱く人物評であることは、否定しようがありません。

 つまり――
 報道や評論で飛び交う人物評を見聞きしたときには――
 つい、それら人物評を、自分が実感として抱く人物評と比べてしまうのです。

 希薄な人物評を基準にされたら――
 張りつめた関係性を反映した人物評というのは、どうしても嘘っぽくなります。

 そうした人物評は、きっと、かなり濃密でしょう。
 希薄な人物評で測ったら、目盛が振り切れてしまいます。

 鉄の密度を綿の密度の何倍かで表したら非日常的な数値になってしまう、というのと――
 たぶん同じような原理です。