世の中には、いわゆる、
――数学嫌い
をやたらと憂える人たちがいて――
そういう人たちは――
どうにかして若い学生さんたちが数学嫌いになるのを防ごうと躍起になっているようなのですが――
僕などは、
(別にいいじゃん、数学嫌いが増えたって……)
などと思うのです。
というのは――
数学嫌いが増えたとしても、世の中が困るわけではないからです。
困るのは――
数学の使えない人たちが増えた場合です。
数学が嫌い = 数学が使えない
では決してないからです。
数学嫌いでも、仕事で数学を使っている人は、たくさんいます。
そういう人たちは、多くの場合、数学の抽象性が嫌いです。
数学の抽象性とは、思いっきり簡単にいってしまうと――
例えば、「2個のリンゴ」とか「人が2人いる」とか「あと2日間は……」といった日常的表現が示唆する「2個」や「2人」や「2日間」といった日常的概念から「2」という概念を抽出してきて得られるもの――
のことです。
そういう人たちの中で、数学嫌いをどうにかして減らしたいと思っている人たちは――
曰く、
――「2個」や「2人」や「2日間」がわからないうちに「2」を教えても面白いわけがないだろう!
というようなことを糾弾するのですね。
たしかに、その通りなのですが――
数学の数学らしさ――つまり、数学の本質――は、「2個」や「2人」や「2日間」のところには、決して備わっていないと思うのですよ。
「2」にしか備わっていない――
ですから、若い学生さんたちに数学の本質をきちんと教えようと思ったら――
「2」を教えるしかないのですね。
「2個」や「2人」や「2日間」を教える前に「2」を教えるというのは、教育論上、無益なことなのであって――
もし、いきなり数学の本質を説明しようと思ったら、案外、的を射ているように思います。
数学の本質は、人がもつ日常的な感性からは大きくズレているものです。
それは――
日常的な感性に慣れ親しみ、それを大切にしたいと願う人にとっては――
むしろ嫌いになって当然のものです。
数学嫌いの若い学生さんたちの中には――
数学の本質を正しく捉えている人たちが、数多く含まれている可能性もあります。