――心のかけら
ということを――
少し考えたことがあります。
僕らは、心を理解するのに、どうやって分解をすればよいのだろうか、と――
あるいは――
そもそも、心を分解して理解しようとすること自体が、間違っているのだろうか、と――
例えば――
障子(しょうじ)から滲みこむ日の光、襖(ふすま)が左右に開かれる様子、畳から仄かに立ち上る草の香り、床の間の掛け軸の静謐な佇まい、ししおどしの済んだ音の響き方、などから、
――日本家屋
へと統合するように――
僕らは、「心のかけら」から心を統合することができるだろうか、と――
そのような「かけら」に心を分解することはできるだろうか、と――
すなわち――
ある人の言葉の発し方や声の抑揚、あるいは、笑顔の作り方や涙の流し方、視線の移ろい、無意識の手仕草、その人の書いた手紙の文面や筆跡などは、「心のかけら」といえるだろうか、と――
それらを統合することで、僕らは心の認知に至るだろうか、と――
それは、たしかに心であると納得できるだろうか、と――
……
……
どうも――
納得できそうにないのですよね。
それらは、たしかに何かのかけらであろうとは思うのですが――
その「何か」は心とは異質であろうと思うのです。