ある命題が真か偽かを判断するときに――
結局は、自分の好みが判断を左右するという話をきいて、
(そうかもな……)
と感じました。
――AはBである。
という命題を真だと判断するのは、その命題が自分にとって好ましいと思えるからであって――
もし、忌まわしいと思えたら、偽だと判断してしまう――
そういう傾向が、自分の判断の根底に潜んでいないとはいえない――
そう思ったのです。
実際――
ある命題を偽だと判断した人が、余計なコメントを付け加えることは珍しくありません。
――命題「AはBである」は偽である。
とだけコメントをすれば済むところを、
――実に挑発的な主張である!
とか、
――我々をバカにしているのか。
とか――
たしかに――
その命題があまりにも奇抜で斬新であったりすると、そのようにコメントしたくなる気持ちは人情ですが――
でも、そうしたコメントは――
要するに、
――命題「AはBである」は私にとって忌まわしい。
と吐露しているにすぎないのですよね。
それは、あきらかに賢明な態度ではない――
自分の本音を不用意に曝け出しているからです。
真偽の判断から自分の好みを完全に排除することは、おそらくは不可能なのでしょうが――
排除する努力は怠りたくないものです。