マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

やっぱり時間なのか

 人が人を知るのは――
 その人の言葉によってではなく、表情とか仕草とか姿勢とか口調・声色によってだといわれます。

 たしかに、その通りで――
 例えば、長年にわたって同じテレビ番組で、同じ時間帯に出演し続けてきた人は――
 その番組をつぶさに見てきた人はもちろんのこと、そんなには見てこなかった人にも――あるいは、ごくまれにしか見てこなかった人にも――よく知られているものです。

 正確には、たぶん、

 ――「よく知っている」と思われている。

 ですが――

 おととい最終回だった『笑っていいとも!』の“タモリ”こと森田一義さんが典型でしょう。

 少なくとも僕などは、タモリさんが番組でおっしゃってきた全内容の0.0001%にも触れていませんが――
 それでも、
(僕は、タモリさんのことを知っている)
 と誤解しています。

 いま「誤解」と述べましたが――
 たしかに、誤解と思うのですが――

 でも――
 例えば、誰かがタモリさんのモノマネをやれば、それがタモリさんのことだとわかるという意味において――
 僕は、タモリさんのことを知っているのですね。

 これは、不思議といえば、不思議なことです。

   *

 3月31日の日は、仕事から帰ってきて自宅のテレビをつけたら――
 いつもお昼の12時すぎに出ていらしたタモリさんのご様子が映し出されていて――

(ああ、タモリだ~)
 と思わず一人ごちました。

 厳密には、
(ああ、『いいとも!』のタモリだ~)
 です。

 たぶん、僕だけではなかったでしょう。

 ある年代より上の人たちは、多かれ少なかれ、僕と同じように一人ごちたのではないでしょうか。

 一瞬でそれとわかったというのは――
 どうしたことなのでしょうね。

 もちろん――
 その時にやっていた番組は、これまでの昼の時間帯ではなくても、あくまで『笑っていいとも!』の特別番組だったので――
 タモリさんご自身が「『いいとも!』のタモリ」でありつづけていらしたからだろうと想像はしますが――

 それでも――

 それをそれとわかる僕らは――
 いったい、どうしたことなのでしょうか。

 タモリさんの卓越したタレント性だけでは、それを説明することはできないでしょう。

(やっぱり時間なのかな)
 と、僕は思います。

   *

 僕が、初めて「『いいとも!』のタモリ」を知ったのは――
 小学校3年か4年の夏休みだか冬休みのとき――
 祖母と一緒に『笑っていいとも!』をお茶の間で見ていたときでした。

「なるほど、“森田一義”……、そういうことか。“もりた”だから“タモリ”なのだと……」
 と、しきりに感心してみせた祖母は――
 たぶん、当時『笑っていいとも!』という新進気鋭のバラエティ番組の評判を新聞や週刊誌で把握した上でチャンネルを合わせていたに違いないのです。

 その祖母は明治生まれでした――
 僕も、僕の親も、わりと遅くに生まれた子だったので――

 ちなみに――
 当時のタモリさんは、今の僕よりも年下です。

 ――やっぱり時間なのか。

 というのは――
 そういうことなのですね。

 つまり――
 自分が小学生だったときに、明治生まれの祖母から刷り込まれたパーソナリティを――
 人は、そう簡単には見失わない――その後ずっと、ごくわずかでも触れ続けている限りは――

 ――継続は力なり

 などといいますが――
 その本質は、もっと複雑で豊潤に違いありません。