何が美しくて、何が醜いかということは――
結局は、個人が自分の記憶に基づいて主観的に判定しているにすぎないと――
僕は思っています。
つまり――
その個人が、過去に、
――これは美しい!
とか、
――これは醜い!
とか刷り込まれた記憶が主観的基準となって――
美・醜が判定されているにすぎない、と――
ですから――
個人が美・醜を的確に判定するには、それまでに、いかに美しいものを「美しい」と認識させられてきたか、醜いものを「醜い」と認識させられてきたかが大事なのであって――
どこかに美・醜の客観的基準が存在しているわけではない――
ということです。
ところが――
おそらく、個人が内蔵している“美・醜の主観的基準”というのは、同じ時代・同じ地域で暮らしていれば、しぜんと似てくるでしょうから――
そのうちに、どこかで“美・醜の客観的基準”が存在していると、人々は錯覚してしまう――
そこが厄介なのですね――とくに“美・醜の主観的基準”が多少なりとも平均から遠いような個人には――
僕も、たぶん平均からは少し遠いと思います。
だって、時々、
(オレは変だな)
と思うことがあるからです。
例えば――
大勢の人々が、
――美しい!
と絶賛しているものを、
(どこがぁ?)
と訝ってみたり――
反対に、
――醜い!
と憎悪しているものを、
(いいじゃん)
と愛でてみせたり――