きのうの『道草日記』で、
――美・醜の基準は主観的
ということを述べました。
では、巧・拙の基準はどうでしょうか。
*
僕は、巧・拙の基準なら、ある程度は客観的なものにできると思っています。
「客観的に」というのは、例えば――
巧・拙に関わる具体的な項目を設定し、それらに何らかの尺度をあてて点数化した上で、高得点は「巧い」、低得点は「低い」とみなせるように――
ということです。
もちろん――
その際は、例えば、どのような項目を設定するのか、あるいは、どのような尺度をあてるのかを慎重に考えなければなりませんが――
それでも――
そうした項目や尺度の試行錯誤を辛抱強く繰り返していけば、いつかは再現性のある判断基準が調うことでしょう。
巧・拙の判断について、なんとしても見逃せないのは、
――「拙」の判断は、どんな人でもできるが、「巧」の判断は、できる人とできない人とがいる。
という点です。
つまり、
――拙いかどうかは自分が拙くてもわかるが、巧いかどうかは自分も巧くないとわからない。
ということですね。
いいかえると――
例えば、プロの画家の作品をみて、それを「巧い」と判断するのは、プロの画家でないといけないが――
子供のお絵かきをみて、それを「拙い」と判断するのは、誰にでもできる――
ということです。
2日前の『道草日記』で――
僕は、
――「ぶざま」とは、「拙い醜」あるいは「拙い美」のことである。
と述べました。
ということは、
――「ぶざま」という観念は、誰にでも即座に理解されうるものだ。
ということを意味します。
「巧い美」や「巧い醜」は、その美・醜の判断が個々の主観によってバラバラであるだけでなく――
そもそも、自分も同じくらい巧くないと、それを「巧い」とは判断できませんから――
凡人には、かなり縁遠い観念です。
それに対し――
「ぶざま」は、凡人にとっても、きわめて手軽な観念だということです。
しかも、美・醜の判断が個々の主観によってバラバラであっても、なんら困らない――
「拙い醜」も「拙い美」も、たぶん誤差の範囲内です。
円グラフの目盛の「49%」と「51%」とに大した差がないのと同じです。
つまり――
誰でも、いつでも、きわめて簡単に判断できる――それが「ぶざま」なのですね。