きょうも「戦いの物語」について――
何年か前に――
究極の反戦物語について考えたことがあります。
もし、そのような物語が成り立ちうるとしたら、どんな物語か、と――
例えば――
あるところに好戦の登場人物たちがいて、つねに戦いをしかけてくる――
その戦いを別の登場人物たちに受けて立たせれば、ある意味で――少なくとも必要悪という意味で――戦いを肯定することになる――
これだと、「戦いの物語」とはいえますが、「反戦の願いが主題となっている」とは、ちょっといえませんね。
よって――
好戦の登場人物たちに戦いをしかけられ、受けて立たない登場人物たちが必要になってくる――決して戦いに応じようとしない登場人物たち――あるいは、ひたすら逃げてまわる登場人物たち――
これなら、「反戦の願いが主題となっている」とはいえますが、「戦いの物語」とは、ちょっといえませんね――何より、たぶん物語として、そんなに面白くはならない――
では、どうするか――
好戦の登場人物たちを二派に分ける――
心の底から好戦的な登場人物たちと、実は戦いの意義に疑いをもっている登場人物たちと――
そして、二派の間で戦いを起こさせる――戦いを望む者と望まない者との戦いを――
これなら、「反戦の願いが主題となっている」といえそうだし、「戦いの物語」ともいえそうです。
ところが――
新たな問題が発生します。
それは――
戦いを望まない者が戦いを望む者と戦うことの矛盾をどう考えるかです。
あるいは、
――戦いを回避するための戦いとは何ぞや?
という疑義――
この問題は、案外、根が深いのです。