マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

話は適度に大雑把がよい

 一般に――
 話というものは、緻密になりすぎると、面白くなくなるのですね。
 
 話は適度に大雑把がよいのです。
 
 緻密だと、
(なんか面倒だな~)
 と煙たがられる――
 だから、面白く感じられない――
 
 なぜ煙たがられるのか――
 
 おそらくは――
 人の頭が、緻密な話を短時間で受け入れるようには、特化していないからです。
 
 人の頭は、むしろ、大雑把な話から要点を素早く抽出し、理解し、受容するほうに特化しています。
 
 つまり、抽出・理解・受容の過程を瞬時に終えるように特化している――
 それが、人の頭の特性であろうと思うのです。
 
 ところが――
 人は、いったん話をするほうにまわると、このことをあっさり忘れる傾向にあります――どうしても緻密に語りたがってしまうのですね。
 
(よ~し、完璧に仕上げるぞ!)
 と意気込んでしまう――手間暇をかけ、話を練り上げようとしてしまう――
 
 なぜ意気込んでしまうのか――
 
 直接的な理由は――
 おそらくは――
 十分な準備時間があるからです。
 
 人の頭は――緻密な話を短時間で受け入れることと同様に――緻密な話を短時間で練り上げるようにも特化していないはずです。
 
 にもかかわらず――
 十分な準備時間がある場合には、その苦手なことを取り戻そうと地道に努力してしまう――少しずつ少しずつ話を練り上げていってしまう――
 それが、人の頭のもう一つの特性といえましょう。
 
 これらの特性を踏まえると――
 話をするほうに、十分な準備時間があるということは、必ずしも良いことではありません――話をするほうと話をされるほうとのギャップが、準備時間の長さの分だけ、広がっていきかねないからです。