――結論よりも思考の途中経過が大切だ。
とは――
数学教育の現場では、しばしばいわれることですが――
自然科学教育(理科教育)の現場でも、しばしばいわれるようになってほしいと思っています。
今日の自然科学の定説の多くが――
実は、以前は定説でも何でもなかったということ――
むしろ、人々の想像を遥かに超える奇想天外な説であったということ――
あるいは、荒唐無稽でバカバカしいと思われる説であったということ――
そういったことを知っているのと知らないのとでは――
自然科学に向き合う姿勢は、おのずから違ってきます。
なぜ自然科学教育の現場では、数学教育ほどには「思考の途中経過」が重視されずに、「結論」ばかりに関心が集まってしまうのでしょうか。
それは――
おそらくは、自然科学の「結論」には、日常的な意味が見出しやすいからです。
例えば――
三平方の定理の「結論」は、
――直角三角形の斜辺の長さの2乗は、他の2辺の長さの2乗の和に等しい。
というものですが――
この「結論」には、日常的な意味を見出すことが困難です。
一方、地動説の「結論」は、
――太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っている。
というものですが――
この「結論」には、日常的な意味を見出すことが比較的に容易です。
このことは――
真の直角三角形――厳密に定義通りの直角三角形など――は、人の心の中にしか存在せず、日常世界には決して存在しないのに対し――
太陽は日常世界の空に燦然と輝いていて、地球は自分たちが常に足で踏みしめている、ということに由来しているといってよいでしょう。
自然科学の「結論」は、なまじ日常的な意味を見出しやすいがために――
一度その「意味」を見出してしまったら、それで満足してしまう――
(そうか。あのお日様の周りを僕らの足元が回っているのだな)
と納得してしまう――
数学の「結論」は、そうはいきません。
(そうか。これの2乗とこれの2乗を足すと、これの2乗になるのだな)
と納得できる人は、なかなかに稀有です。
ふつうは、
(なんで、そうなわけ?)
と新たな疑問が湧いてくる――
このように、数学では、導かれた「結論」から新たな疑問が次々と生み出されるからこそ――
「結論」が新たな疑問を次々と生み出していくので、かえって、その「結論」を導く「思考の途中経過」のほうが必然的に重視されるようになる――
本当は、数学教育だけでなく、自然科学教育でも、そうあってほしいのですが――
そのためには、膨大な授業時間数が必要です。
自然科学の「結論」は、数学の「結論」とは違って、その数が膨大ですから――