マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

どうして疑うことをしなくなるのか

 ――AはBである。
 
 と知って、
(ええ~、そうなの~! なんで? 根拠は何?)
 と驚いたようなことであっても――
 
 その後、「AはBである」との指摘に繰り返し触れていくと――
 しだいに慣れてきてしまって――
 
 しまいには、その理由や根拠を全く理解していなくても、
(AはBである。そういうものなのだ)
 と信じ切ってしまう――
 
 そういう危険性が――
 人の心にはあるようです。
 
 その人にとって、「AはBである」が全く未知の前提から導かれる結論であっても、あるいは、ほとんど何の根拠もないような仮定であっても――
「AはBである」と繰り返し聞かされているうちに――
 それを疑うことができなくなるのですね。
 
 僕自身――
 つい先日も、それを経験しました。
 
 他の人からの指摘で、
(うわ! なんでオレ、信じ切っていたんだろう)
 と気づき――
 愕然としたものです。
 
 いわゆる洗脳も――
 こうした経験則を基に実行されているのだと想像しますが――
 
 それにしても――
 
 人の心は、どうして疑うことをしなくなるのでしょうかね。
 
 ……
 
 ……
 
 疑うことが、ツラく苦しいことだからでしょうか。
 
 あるいは――
 疑わないことが、心地よく快適なことだからでしょうか。
 
 ……
 
 ……
 
 どちらも当たっているかな……。