マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「深い理解」は面白くないけれど

 ――深い理解
 
 というのは、
 
 ――ええ~? そんなところまで理解しているの~?
 
 といった理解ではなく、
 
 ――ああ。当たり前のことを当たり前に理解しているな。
 
 といった理解ではないか、と――
 僕は思っています。
 
 例えば――
 人の心についてなら――
 
 ――○○という状況での△△という仕草は、□□という心理を反映していると考えられる。
 
 といった理解ではなく、
 
 ――心は脳の働きの一部と考えられているが、その原理を十分に説明できる者はいない。
 
 といった理解ではないか――
 ということです。
 
 いい方を変えると――
 それについて議論する際に、議論の土台となる仮定的前提をもれなく把握していることが「深い理解」なのであって――
 議論の展開を助ける関連知識や議論の帰趨を定める決定的根拠をもれなく把握していることが「深い理解」なのではない――
 ということですね。
 
「深い理解」というのは――
 ふつうは、そんなに面白い内容ではありません。
 
 面白くない内容ですが――
 それを踏まえていないと、とんだ誤解をしやすくなるのです。
 
 例えば、
 
 ――人と人とは、たとえどんなに親密であっても、互いの心情を全て察知しあうことはできない。(A)
 
 というのは、まずまずの「深い理解」であるけれども、
 
 ――男性が女性と末永く親密でありたいのなら、常に女性の表情の変化に注目していればよい。(B)
 
 というのは、それほど「深い理解」ではない――
 ということです。
 
 なぜか――(A)の理解がなければ、(B)の理解だけを踏まえ、浅薄な誤解をしかねないからです。
 
 ――大好きな彼女の顔をずっと見つめていれば、そのうちに結婚できる。
 
 とか、
 
 ――常に妻の顔を見つめていれば、離婚話を切り出されたりはしない。
 
 とか――