コミュニケーションの力は――
結局は、相手の立場をどれくらい慮(おもんばか)れるか、ということにかかってきます。
相手の立場から自分の方をみたときに、自分はどんなふうにみえているのか――
それを想像する力が、コミュニケーションの力の源泉です。
ところで――
会話がテニスのラリーに喩えられることが、よくあります――テニスのラリーが続くように、会話は続くものなのだ、と――
僕はテニスをほとんどやったことがないのですが――
ふと思ったのです。
テニスのラリーを続けるときに――
自分が相手のコートからどんなふうにみえているのかを想像するものなのか、と――
(ふつうは、そんな余裕はないんじゃないの?)
と感じます。
実際のところ――
会話をしているときに、自分が相手の立場からどんなふうにみえているのかを想像するのは――
かなり難しいと感じます――少なくとも、僕には難しい――
ということは――
もし、コミュニケーションの力の源泉が、自分が相手の立場からどんなふうにみえているのかを想像する力だとするならば――
コミュニケーションと会話とは似て非なるもの――少なくとも同一のものではない――ということになりますね。
おそらく――
コミュニケーションの一部が会話であって、会話の一部がコミュニケーションなのでしょう。
つまり、コミュニケーションと会話とに共通部分はあるけれども――
互いに互いからハミ出ている部分も相当にある――
ということです。
会話を続けることがコミュニケーションなのではなく――
会話の機会が途切れないようにすることがコミュニケーションなのではないでしょうか。
テニスを例にとれば――
ラリーを続けることがコミュニケーションなのではなく――
いつどこで一緒にテニスを楽しむかの約束を習慣的に交わし続けることがコミュニケーションではないか、ということです。
この結論は――
僕には案外しっくりときました。
だって――
一緒にテニスを楽しむ習慣を維持するには、相手の都合やスケジュールを常に慮っていないと、とうてい無理ですよね。
もう一つ大切なことに気づきます。
それは――
テニスのラリーを続けるときに、相手の都合やスケジュールを常に慮っている余裕は、ふつうはない――
ということです。
このことは――
会話を優先するあまり、コミュニケーションを疎かにしてしまうということが、大いにありうる――
ということでもあります。
反省や自戒を込めて――
たしかに、そう思います。