自分が「良い」と思っていることを、世間は「良い」とは思っていないらしい場合と――
世間が「良い」と思っているらしいことを、自分は「良い」とは思っていない場合とでは――
どちらが懸念されるべきなのでしょうか。
もちろん――
どちらの場合も、“自分”の感性が“世間”の感性から乖離していることが暗示されるわけですから――
どちらの場合も、それなりに懸念されるべきことではありますが――
どちらか一方の場合を、もう一方の場合よりも強く懸念するほうがよい、ということは――
あるのでしょうか、ないのでしょうか。
……
……
僕は、前者の場合よりも後者の場合を、より強く懸念するべきではないかと、考えています。
すなわち、
――世間が「良い」と思っているらしいことを、自分は「良い」とは思っていない場合 (A)
のほうが、
――自分が「良い」と思っていることを、世間は「良い」とは思っていないらしい場合 (B)
よりも、乖離としては、深刻ではないか――
ということです。
なぜならば――
(B)の場合は、“世間”が見落としている(あるいは見落としてきた)良さを、“自分”が拾い上げている可能性が残されていて――
しばらく時が経つと、“世間”の見方が“自分”の見方に追いついてくるかもしれないのに対し――
(A)の場合は、“自分”には決して理解できない良さを“世間”は既に十分に理解している可能性が否定されえず――
それは、つまりは、“自分”が“世間”から取り残されていることを意味しているだけかもしれないからです。
もし、そうであるならば――
人は、常に何を“世間”が「良い」と思っているかに留意するのがよくて、何を“自分”が「良い」と思っているかに留意する必要はない――
ということになります。
これも――
広い意味で、
――無私の心
ですね。