マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

人間は、つい争いごとを起こしてしまう

 一つの争いごとが何か別の争いごとを生む――
 ということが、よくあります。
 
 ですから――
 何か争いごとを見かけたら――
 少なくとも自分が原因となって新たな争いごとが起こることのないように――
 僕自身、慎重に立ち回っているつもりなのですが――
 
 たぶん――
 そんなに巧くは立ち回れていないと思っています。
 
 つまり――
 自分では気づかないうちに――
 きっと新たな争いごとを起こしているに違いない、と――
 思うのです。
 
 5年くらい前までは――
 そんな自分が――
 歯がゆくて、情けなくて、許せなかったのですが――
 
 今では、
(まあ、しょうがないか……)
 と思うようにしています。
 
(人間は、つい争いごとを起こしてしまう存在なのだろう)
 と――
 
 争いごとの原因は――
 通常は、肯定的にとらえられている諸概念です――例えば、“正義”とか“信念”とか“人道”とか“礼儀”とか“美意識”とか“合理性”とか“寛容性”とか――
 
 それら諸概念の一つひとつに、まったく矛盾が含まれていなければ――
 たぶん、争いごとは起こらないのでしょう。
 
 が――
“正義”も“信念”も“人道”も“礼儀”も“美意識”も“合理性”も“寛容性”も――
 すべて人間が作り上げた思惟的造形物ですから――
 どうしても矛盾は含まれるのですね。
 
 では、“正義”も“信念”も“人道”も“礼儀”も“美意識”も“合理性”も“寛容性”も、すべて捨て去ればよい、と――
 いえるでしょうか。
 
 ……
 
 ……
 
 たぶん――
 そうもいえないでしょう。
 
 これら諸概念をすべて捨ててしまった人間は――
 果たして、「人間」と呼べるでしょうか。
 
 つまり――
 人間が人間らしくある以上――
 この世から争いごとは決してなくならないのです――おそらくは――