マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「勇退」にも“責任”はある

 ――勇退

 という言葉がありますね。
 意味は、

 ――後進に道を譲るために、重要な役職や地位を辞すること

 です。

 一般に、それまでの自分の裁量や立場を自ら手放すには、それなりの覚悟や勇気が必要です。
 よって、「勇退」は、文字通り、

 ――勇んで退く

 くらいの意味で使われることが多く、

 ――私は今年度いっぱいで勇退しようと思います。

 とか、

 ――いろいろ考えた結果、勇退することに致しました。

 とかと、おっしゃる方も少なくはないと思うのですが――

 この「勇退」――
 基本的には誉め言葉と捉える向きがあり、

 ――自分の引退を「勇退」と称するのは、おこがましい。

 との見解が根強く残っています。

 つまり、単に後進に道を譲ることが「勇退」なのではなくて――
 それまでに、その役職や地位で華々しい業績を上げ、周囲から称讃・尊敬された上での引退が「勇退」である――
 ということなのです。

 たしかに、そうした敬意を集めた引退が「勇退」ならば――
 自分で「勇退」を口にするのは、おこがましいですよね。

 では――
 自分で「勇退」を口にする人が、なぜ少なからずいるのでしょうか。

 それは――
 たぶん、この言葉を報道関係者がわりと気軽に使っているからです。

「気軽に」というのは、

 ――「勇退」とは「周囲から称讃・尊敬された上での引退」であるという考え方が存在することをあまり意識しないで――

 くらいの意味です。
 あたかも、「引責辞任」や「更迭」「左遷」でなければ、すべて「勇退」であるかのように、「勇退」という言葉が使われているように感じます。

(そこは「勇退」じゃなくて、単に「退任」とか「離任」とか「退職」とか「引退」とかでいいんじゃない?)
 と思うことが、よくあります。

(「勇退」といっておきながら、なぜ「勇退」なのか、まったく文脈からはわからないし……)
 とも――

 ……

 ……

 が――
 まあ、無理もありませんかね。

勇退」にも“責任”はあるでしょう。
 少なくとも、

 ――勇んで退く。

 からは「称賛」や「尊敬」の意味は感じとれません。

 ――讃退

 とか、

 ――尊退

 とかなら、感じとれますが――
「讃退」や「尊退」なら、わざわざ自分で口にする人はいないでしょう。

「私は今年度いっぱいで讃退しようと思います」や「いろいろ考えた結果、尊退することに致しました」では――
 あきらかに滑稽ですから――