マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

作詞

 僕が10代の頃から傾倒している作詞家・作曲家の方がいらして――

 その方の詞は――
 言葉遣いに豊かな情緒があるだけでなく――
 形式的な美しさや論理性の明らかさがあって、
(すごいな~)
 と、ずっと感じ入っているのですが――

 40歳を過ぎてから――
 その方の傑作の1つといわれている作品を新たに知り――
 ここ数か月ほど、繰り返し聴いていたのです。

 その方は極めて多作でいらして――
 すべての作品を味わい尽くすには、相応の年月が必要です。

 もちろん――
 ここ15年ほどは、僕が怠けていて――
 その方の新作を入念にチェックしていたわけではなかった、ということもあるのですが――

 で――
 その傑作の1つといわれている作品を繰り返し聴くうちに、
(あれ?)
 と思うようになったのです。

 どうも、
(……らしくない)
 のですね。

 その方の書かれた詞らしくない――

 一言でいえば、

 ――完成度が高くない。

 のです。

 詞の形式的な美しさや論理性の明らかさが――
 どういうわけか中途半端になってしまっている――

(これはどうしたことか)
 と思って――
 この詞の構造に何か根本的な問題が含まれるているのかと考え――

 とりあえず、僕なりに完成度を上げるべく――
 僭越にも――
 その詞に筆を加えてみたのですが――

 別に、どうってこともなく、修正はききそうなのです――
 詞の形式を美しく揃(そろ)え整えることも、詞の論理を明らかに研ぎ澄ませることも――

 では――
 そうした修正をなぜご自身はされなかったのか――

 一つは――
 締切までの時間が差し迫っていた可能性――

 どんな仕事でもそうでしょうが――
 プロであるならば、状況によっては――
 品質より期限を優先せざるをえないことがありますよね。

 もう一つは――
 歌手側の意向を汲んで、あえて形式美を崩し、論理性を暈(ぼか)した可能性――

 その詞は、さる高名な歌手の方に提供されたものです。

 実際に唄われる方のご意向を取り入れることで――
 形式や論理の整合性については、どうしても不完全にせざるをえなかった――

 以上は、あくまでも僕の推定です。

 もっといえば――
 邪推にすぎません。

 実際に、どうであったのかは――
 ご本人ないしご本人の周辺の方々に伺うしかないのですが――

 もちろん、ご面識を得ているわけはなく――
 直に伺うことは適いません。

 ですから、
(なんでなのかな~)
 と、しばらく悶々としていたのですが――

 あるとき――
 ご本人の著された随筆の中に、この作品に触れ、詞の一部を引用されている箇所をみつけたので――
 それを繰り返し精読してみたところ――

 あることに気がつきました。

 それは――
 その随筆で引用されていた部分に関しては――
 完璧な形式美や論理性を保っているということです。

 今度は、
(……らしいな)
 と思いました。

 よって――
 おそらくは、歌手側の意向を汲んで、あえて形式美や論理性は犠牲にされたに違いない、と――
 現時点では、勝手に結論づけております。

 そうしたことも含めて、

 ――作詞

 なのでしょうから――