ここのところ、
――多数決の原理は、現代社会の民主主義では、破綻している。
との警句が――
かまびすしく発せられるようになりました。
「破綻している」とは、どういうことか。
例えば――
A、B、Cの3人の政治家がいたとします。
この3人から、誰か1人を代議員に選ぶとしましょう。
このとき――
A、B、Cを支持する有権者の割合が、それぞれ40%、35%、25%(計100%)だとしたら――
Aは、多数決の原理に従って、代議員になるのがよい――
という解釈が成り立ちますね。
ところが――
どうでしょうか。
計60%の有権者から「絶対に支持できない」とみなされているわけですから――
Aは、多数決の原理に従って、代議員にならないのがよい――
という解釈も成り立ちますね。
これは、深刻な矛盾です。
よって、「多数決の原理は、現代社会の民主主義では、破綻している」という警句に一理あるのは、間違いありません。
が――
以上の主張には、論理の飛躍があります。
たしかに、計60%の有権者から「絶対に支持できない」とみなされている政治家が代議員になるという矛盾は、決して無視できるものではありません。
とはいえ――
この矛盾を緩和することはできます。
――「支持」を「積極支持」と「消極支持」との少なくとも2種類に区分する。
というアイディアを導入するのです。
例えば――
有権者は、1人1票ではなく、1人3票で投票する――
積極支持で2票、消極支持で1票――
今、Aを積極支持する有権者が、A以外のどちらの政治家を消極支持するかは五分五分と仮定します。
すると、
積極支持 A 40% B 35% C 25%
消極支持 A 0% B 45% C 55%
となります。
ここで、積極支持の割合の2倍の値と消極支持の割合の値とを加え、新たに「ポイント」という値を定義し――
このポイントが最多となる政治家を代議員に選ぶとすれば、
A 80ポイント B 115ポイント C 105ポイント
となって――
Aではなく、Bが代議員に選ばれることになります。
このような原理を“修正多数決”とでも呼びましょうか。
こうした考察は――
実は、ヨーロッパなどで数百年前から広く検討されてきたそうで――
僕がいう“修正多数決”の原理は、厳密には、多数決の原理とは相容れず――
よって、“修正多数決”の呼称は適切ではないようですが――
それでも、この原理――「支持」を「積極支持」と「消極支持」との2種類に区分し、「消極支持」と「不支持」とを明確に区別するという原理――は、少なくとも、
――最も積極支持または消極支持されているのは誰か。
とか、
――最も忌避されていないのは誰か(最も「絶対に支持できない」とみなされていないのは誰か)。
という観点でとらえたら、“修正多数決”は無理でも、“多数決の亜型”とみなすことくらいは、できそうです。
つまり――
何がいいたいのか申しますと――
「多数決の原理は、現代社会の民主主義では、破綻している」という警句には違和感を覚える――
そうではなくて、
――1人1票の多数決は破綻している。
とか、
――消極支持と不支持とを区別しない多数決は破綻している。
と考えるのが、よいのではないか――
いいかえるなら――
高度に複雑化した現代社会では、「1人1票」ないし「『支持』か『不支持』かの二者択一」といった単純な前提が通用しなくなっているのではないか――
あるいは――
そういうことです。