マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

盗用の疑惑が指摘されている創造物のすべては

 ――創造とは、既存の創造の新たな組み合わせにすぎない。

 と――
 しばしば、いわれます。

 創造を生業にしている人なら――
 いやでも痛感させられることです。

 なぜならば――
 人は、創造を繰り返しているうちに――
 やがて、既存の創造に頼らない創造――つまり、まったくの無からの創造――が、いかに困難であるかを――
 思い知るからです。

 ですから――
 人は、創造を繰り返していくうちに、「創造とは、既存の創造の新たな組み合わせにすぎない」という諦念を受け入れ、それに馴染み――

 やがて――
 それを前提として――
 人は、創造に取りくんでいくわけです。

 ここで、一つ注意しなければならないことがあります。

 それは、この「創造とは、既存の創造の新たな組み合わせにすぎない」という諦念に馴染むあまり、いつしか、

 ――創造とは、既存の創造の組み合わせにすぎない。

 と勘違いをしてしまうことです。

 おわかりになりますか。

 つまり、「新たな組み合わせ」の「新たな」が、いつしか抜け落ちてしまうのですね。

 これは――
 おそらくは誰もが陥りかねない落とし穴でして――

 かくいう僕は――
 これまでに何度も陥っております。

 ……

 ……

 昨今――
 盗用の疑われる創造物の話題が、あとを絶ちませんが――

 僕がみる限り――
 そうした疑惑が指摘されている創造物のすべては――

 少なくとも僕の主観では――
 少しも新しくないのですよね。

 一見して古くさい――

(どっかでみたことある気がする~)
 という嘆息――

 あるいは――
 理屈抜きの既視感で溢れてしまっている、というか――

 ……

 ……

 まあ――
 僕の思い込みかもしれませんけれど……。