マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

姑息は必ずしも卑怯ではない

 医療の現場に、

 ――姑息的治療

 とか、

 ――姑息手術

 といった言葉があります。

 今日、「姑息」といえば、

 ――卑怯である。正々堂々としていない。

 といった意味で用いられることがほとんどですが――
 本来は、

 ――しばらく息をつく。休息をする。

 くらいの意味で用いられていました。

 つまり、「姑息的治療」というのは――
 患者に、しばしの休息をもたらすために症状の緩和を目指す治療のことであり――

 そうした治療の一種に外科手術があることから――
 その手術を「姑息手術」と呼んでいます。

 対義語は「根治的治療」「根治手術」です。

 とはいえ――
 現在の日本社会では、7割くらいの人が「姑息」に「卑怯である。正々堂々としていない」という意味を読みとるそうですから――
 医療の現場であっても、「姑息的治療」とか「姑息手術」という言葉は、うっかり使えません。

 僕自身も――
 医学生として外科の実習に参加していた頃――
 指導医に対し、うっかり、
「根治手術は不可能ですが、姑息手術は可能と判断されています」
 と報告し、
「おいおい。『姑息手術』という言葉を安易に使うもんじゃない」
 と注意されました。

 なぜ「姑息」という言葉に、「卑怯である。正々堂々としていない」といった意味が伴うのか――

 それは――
 ひとまず休息をとるために、その場しのぎの対応に終始して、抜本的な対応は怠ることが、「卑怯」ないし「正々堂々」とみなされるからでしょう。

 もちろん――
 問題は「怠る」にあって、「休息」にはありません。

 姑息は必ずしも卑怯ではないのです。

 抜本的な対応を――
 とれるときにとらないのは、怠慢ですが――
 とれないときにとらないのは、やむを得ません。

 むしろ――
 根治的な対応をとれない現実に目をつむることのほうが、ずっと卑怯であるといえます。

 誠意をもって正々堂々と姑息に徹する――
 そうした局面は、医療の現場に限らず、人の世の全般で、しばしば見受けられます。