マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今の30歳は昔の30歳よりも

 ――昔の30歳は、今の30歳よりは落ち着いていた。

 という話を――
 ときどき耳にします。

 裏を返すと、

 ――今の30歳は昔の30歳よりも落ち着いていない。

 ということですね。

 この場合の「昔」が、いつを指すのかは曖昧なのですが――
 ざっと20年前でしょうか。

 といいますのは――
 この話は、主に1960年代以前に生まれた人たちから聞くように思うからです。

 その人たちが30代になったのが1990年代以前ですから――
 つまり、今から、ざっと20年前という計算になります。

 僕は1970年代の生まれです。

 僕が30代になったのは2000年代でした。

 その頃、すでに、

 ――今の30歳は若いね~。

 と、いわれ始めていました。

「若いね~」が「幼いね~」に変わることも珍しくありませんでした。

 その後の“30歳”の変遷は、記憶に新しいところでしょう。

 30歳を過ぎても結婚しないのは当たり前となり――
 40歳が近づいても、身軽なままで、したたかに独身生活を謳歌する――
 そんな風潮が忌避されなくなりました。

 プロ野球選手が、30歳を過ぎてから、メジャーリーグを目指してアメリカで下積み生活を始めても――
 女性アイドルが、30歳を過ぎてから、10代の頃と同じように、きわどいグラビア写真を発表しても――
 世間は一定の共感を示すようになりました。

 そういう意味では――
 たしかに「今の30歳は昔の30歳よりも落ち着いていない」と、いえるかもしれません。

 この“落ち着きのなさ”は、どこからくるのか――
 精神的な未熟からくるのか――

 今の30歳を、単に「精神的に未熟である」と断罪してよいものかどうか――

 もちろん――
 今の30歳の“落ち着きのなさ”を、

 ――あがき

 と捉えることは、できると思います。

 歳をとることへの拒否感――
 あるいは――
 老成することへの抵抗感――
 そうした感覚に基づく「あがき」ですね。

 が――
 その「あがき」の背景にあるのは、もう少し肝の据わった洞察ではないか、と――
 僕は思っています。

 それは――
 一言でいえば、

 ――死を思え(memento mori

 の思想です。

 古代ローマから現代日本にまで受け継がれてきた死生観ですね。

 ――30歳を過ぎてから20代のやり残しをやって何が悪い? 30代になって30代にふさわしいことをやって何になる? 40代が永遠にやってこないかもしれないのに……!

 こうした発想は――
 昭和中期の高度経済成長期には、おそらく「刹那的」とか「退廃的」といった否定的な言葉で片付けられていたはずです。

 が――
 昭和末期にバブル経済が崩壊し、平成になって“失われた20年”が経過して――
 今は、世相が違ってきています。

 年間の自殺者が3万人を超えるようになって、

 ――あすが永遠にこないかもしれない。

 ――明けない夜も、あるかもしれない。

 といった極言さえ――
 真実味を帯び始めました。

(死を思っているからこそ、人は落ち着きがなくなるのであろう)
 と――
 今の僕は思っています。

 今の30歳が昔の30歳よりも本当に落ち着きがないのだとしたら――
 それは、今の30歳が昔の30歳よりも強く死を思っているからではないでしょうか。

 それは――
 古代ローマの「死を思え」の思想に通底しているといえることから――
 ある程度は健全なことであろうと感じます。

 いつ生を終えるかもわからない儚い存在が人間である、という真実は――
 古代ローマでも現代日本でも、まったく揺るぎませんので――