マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

自分の容貌の衰えを認め、受け入れようとする人は

 自分の容貌の衰えを嘆き、悲しむだけの人は――
 たぶん、若い人たちに疎まれるだけですが――

 自分の容貌の衰えを認め、受け入れようとする人は――
 たぶん、若い人たちに敬われるでしょう。

     *

   年年歳歳 花あい似たり
   歳歳年年 人 同じからず

 との一節がありますね。

 中国・唐代の詩人・劉希夷が残した『代悲白頭翁』の有名な一節です。

   毎年、毎年、花は似たように咲いていて
   毎年、毎年、人の顔ぶれは変わっていく

 くらいの意味で――
 人の一生の儚さを諭していると考えられます。

 この一節を見聞きするときに――
 いつも思い起こすことがあります。

 それは――
 詩の題名である「代悲白頭翁」の書き下し方です。

 この詩は――
 作者が、すっかり白髪になってしまった老人の様子を説き、紅顔の美少年ら(あるいは、詩の鑑賞者ら)に呼びかける体裁をとっています。

 ――見よ。この白髪の老人を憐れむがよい。この老人も、昔は、たしかに紅顔の美少年であったのだ。

 と――

 この「代悲白頭翁」は、通常、

   白頭を悲しむ翁に代わりて

 と書き下されます。

   白髪を悲しむ老人に成り代わって

 くらいの意味です。

 が――
 この書き下し方に、僕は若干の違和感を覚えるのですよね。

 次のように書き下すのがよい、と――
 僕は思っています。

   悲しみの白頭翁に代わりて

 と――

 意味は、

   悲しみの白髪老人に成り代わって

 です。

 老人は、決して自分の白髪を悲しんだりはしない――
 ただ、自分が若く美しかったときのことを思い出し、今、若く美しい者たちの盛りの様子をみて、

 ――人の一生は何と儚いものか。

 と嘆き悲しでいるようにみえる――

 が――
 実際には、黙して語らない――

 その老人こそが、「悲白頭翁」であり――
 その物いわぬ老人に成り代わって、今、自分が物いおうではないか――

 それこそが、「代悲白頭翁」の真意ではないか、と――

 そんなふうに――
 僕には思えるのです。

 ……

 ……

 もちろん――
 僕は漢文学の専門家ではありませんから――
 以上の持論について、何ら文学的な根拠を持ち合わせていません。

 もしかしたら――
 僕の書き下し方は、文法上、不可能なのかもしれません。

 が――
 一つだけ、直感的ないし直観的な根拠を挙げておきます。

『代悲白頭翁』の作者・劉希夷は、30歳くらいで夭折しているのですね。
 一説には、殺害されたのだ、とか――

 この『代悲白頭翁』の出来ばえに垂涎した姻族の詩人・宋之問が、

 ――この作品を自分に譲ってほしい。

 と迫ったところ、劉希夷に断られ――
 それを根にもち、下僕に殺害を命じたらしい、とのこと――

 その真偽はともかく――
 劉希夷が30歳くらいで亡くなっているということは――
『代悲白頭翁』が20代の青年によって作詩されたことを示唆します。

 20代の青年が、白髪の老人のことを詩に書き留めようと思い立った際に――
 その老人が白髪を悲しんでいると認識していたら――

 はたして――
 ここまでに深い哀感や共感を示せていたでしょうか。

 僕には疑問です。