――美とは何か。
と問われれば、
――自分の脳が無意識に知覚したがる性質のこと
と答えることにしています。
場合によっては、「無意識に」を削って、
――自分の脳が知覚したがる性質のこと
とします。
そのような性質を知覚するときに――
人は、
――美しい。
と感じているのではないか――
ということですね。
このように答えると――
当然ながら、
――自分の脳は、自分の脳が知覚したがる性質を、なぜ知覚したがるようになったのか。
との問いが新たに生まれます。
この問いは、
――“自分の脳が知覚したがる性質”は、どのように決まるのか。
と書き換えることができます。
では、“自分の脳が知覚したがる性質”は、どのように決まるのか――
僕は、以下のように考えています。
すなわち――
“自分の脳が知覚したがる性質”は、自分の根本的な欲求の生じ方や満たされ方と密接に関係しているのではないか、と――
根本的な欲求とは、自分の命の存続に欠かせない欲求のことです。
基本的には食欲と性欲との2つですが――
もちろん、それらより多少なりとも高次元と思われる欲求――休息欲や活動欲、交友欲や恋愛欲、名誉欲や権力欲、創造欲や探求欲など――も含まれるでしょう。
そして――
“自分の脳が知覚したがる性質”とは――
それら根本的な欲求が生じた時に――あるいは、満たされた時に――たまたま知覚していた性質ではないか、と――
僕は思うのです。
誤解を恐れずにいえば――
“自分の脳が知覚したがる性質”とは、基本的には無作為の選択で決まっている――
ただし、純粋な無作為の選択で決まっているのではなくて――
根本的な欲求が生じた時に伴っていた気分の浮き沈みや期待・不安、あるいは、それら欲求が満たされた時に伴っていた快・不快の感覚によって必然的に重み付けされているのではないか――
ということです。
例えば――
おいしいものを食べて満足をしていた時に聴いた音楽は、おいしいものを食べられずに落胆をしていた時に聴いた音楽より“美しい”と後年、感じられるようになる――
ということです。
この考え方の特長は、
――美の主観性
を難なく説明できる点にあります。
同じ音楽を聴いて、ある人は“美しい”と感じ、ある人は“美しい”とは感じない――
この違いは、その人が過去に、その音楽(あるいは、その音楽に似た音楽)と、どのような触れあってきたかに由来する――
と考えられます。
つまり――
その音楽を“美しい”と感じるか否かは――
過去に、その音楽を聴いた時に、どのような精神状態であったかに依存していて、その他の要因には全く依存していない――
ということです。