僕は、決して嫌ってはいなく、むしろ好きなのですが――
でも――
この随筆を読むと――
何となく元気がなくなることも事実です(苦笑
おとといの『道草日記』で引用したものは、有名な書き出しの部分です。
ネットの青空文庫からもってきました。
きょうは、今の日本人に読みやすく整形したものを掲載します。
教育関係のサイトに掲載されたものを参考にしました。
ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)は、かつ消えかつ結びて、久しく留(とど)まることなし。
世の中のある人と住みかと、また、かくの如し。
マル太の現代語訳は、以下の通りです。
ゆく川の流れは絶えることがなく、しかも、同じ水ではない。
淀みに浮かぶ泡沫は、消えては生じ、生じては消えて、長らく留まることはない。
この世に暮らす人と住みかとも、また、このようである。
……
……
この後、『方丈記』では、筆者が見聞きしたであろう天災や人災のことが語られ――
さらに、その後、出家して隠遁している筆者自身の庵での生活の様子が語られ――
最終的には、
――こうした生活が気に入っているのだが、仏教の悟りを本気でひらこうとするのなら、こうした生活への執着さえも断ち切らなければならない。
と、喝破しつつ、
――なかなか、そうはいかないものだ。
と、こぼしています。
随筆の末尾は――
以下の通りです。
ただかたはらに舌根をやとひて、不請の念仏、両三偏を申してやみぬ。
時に建暦の二年、弥生の晦日ころ、桑門蓮胤、外山の庵にして、これをしるす。
マル太の現代語訳は、以下の通り――
ほんのついでに舌の根を使って、不精の念仏を二、三回となえて終わった。
時に建暦二年、三月三十日頃、僧・蓮胤が山里の外れの庵で、これを記す。
「不精の念仏」とは、「イヤイヤの念仏」くらいの意味です。
「不精」は「出不精」や「筆不精」の「不精」ですね。
また――
「桑門」は「僧」ないし「僧侶」を意味し――
「蓮胤」は筆者・鴨長明の出家後の名前――
「外山」は、「奥山」の反対語で、「人里に近い山」を意味しているのだそうです。
ですから――
思い切って砕けた訳にすれば、
ついでにちょっと舌を動かして、イヤイヤ念仏を唱えてみたけど、2~3回で終わってしまった。
時に建暦2年3月30日頃、人里を離れて出家した蓮胤が、人里の近くで、この随筆を記している。
……
……
まあ――
やっぱり――
そんなに元気の出る話ではありません。(笑
とくに目新しい内容の話というわけでもありません。
もし、『方丈記』が、今の日本で、今の日本人に読みやすい文体で、出版されたとしても――
たぶん、そんなには売れないでしょう。
が――
末尾の述懐には人間味が溢れていて――
(読後感は、けっこういい)
と、僕は思っています。