――世の中に出たら、正解のある問題は存在しない。正解のある問題に取り組むのは、学校を卒業するまでだ。
とは――
多くの人々が繰り返し見聞きしてきたフレーズであろうと思います。
このことをもって、
――世の中に出たら、学校で教わることは何の役にも立たない。
と主張する人がいます。
僕も一時は、そのように考えていました。
が――
今は、
(ちょっと、それは違う)
と思うようになっています。
……
……
たしかに――
世の中の問題のほとんどに――
正解はありません。
このことは――
正解のある問題が、世の中には、ほとんど存在しない、ということを意味しているのではなくて、
――世の中に出たら、正解のある問題は「問題」とは認識されていない。
ということだ、と――
僕は考えています。
つまり――
世の中には、本当は“正解のない問題”と“正解のある問題”とが混在しているのだけれども――
“正解のある問題”は――
“正解”があるゆえに、その“正解”が世の中で幅広く共有されているから――
とくに「問題」とは認識されていない――
ということです。
以上のことを踏まえれば――
学校で学ぶべきことの本質がみえてきます。
それは、
――世の中には“正解のある問題”と“正解のない問題”とがあり、“正解のある問題”については、その“正解”を確実に求められるようにしておくこと
というものです。
その“正解”の求め方は、何でもよいのです。
自分自身で導いてもよいし、他者が導いたものを調べてもよい――
とにかく、“正解”を自力で求められるようにしておくこと――
これこそが――
学校教育の本質です。
この求め方の習得がおろそかになっていると――
世の中で「問題」と認識されている問題――“正解のない問題”――に、ほとんど関われなくなります。
関わろうにも――
そのスタート・ラインに立てないからです。
“正解のある問題”の“正解”は――
“正解のない問題”に関わる際のスタート・ラインなのです。