マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

中庸の真逆を代償性に求める

 発言に偏りや過不足がなく、行動に極端な逸脱がなく、全体的に釣り合いがとれている様を、

 ――中庸

 といいますが――

 現代の日本社会では――
 その中庸ではなく、中庸の真逆が、もてはやされる傾向にあります。

 すなわち――
 発言に偏りや過不足があり、行動に極端な逸脱があり、何かが部分的に振りきれている様です。

 とくにインターネット空間では、そうですよね。

 サイトで何か発信をする場合に――
 中庸を貫いていると、なかなかアクセス数を稼げないものですが――
 中庸の真逆に走ると、ときに膨大なアクセス数を稼げてしまう――

 インターネット空間では――
 アクセス数の増加が重要な動機付けになっている現実がありますから――

 中庸が廃れるのは、理の当然といえます。

 とはいえ――

 これを社会現象とみたときに――
 この“アクセス数”云々は、あくまでも表層の事象であって――

 おそらく――
 現代の日本社会は、本態として中庸が廃れつつあるのであって――
 その変化を最も鋭敏に反映しているのが、インターネット空間である――
 といえましょう。

 なぜ、現代の日本社会では、中庸が廃れつつあるのか――

 様々な見解が成り立ちうると思いますが――

 僕は――
 実は、現代の日本社会それ自体は、中庸の様相を、むしろ色濃く保っていると考えています。

 現在の社会それ自体が、中庸の様相を色濃く保っているがゆえに――
 その中で暮らす人々は、かえって代償性に中庸の真逆を求めているのではないか――

 そんな気がしています。

 そもそも――

 中庸が叫ばれ、尊ばれた社会が――
 いかなるものであったか――

 ……

 ……

 それは――
 古代から中世にかけて――

 洋の東西を問わず――
 残虐非道の行いが絶えることはなく、かつ、度を越して理不尽な主張がまかりとおる時代であり――
 国々は絶えず戦乱に明け暮れていて、都市や集落の過半は治安が失われていた社会でした。

 そんな社会であったからこそ――
 人々が中庸を求めたのは、必然であったのでしょう。

 いいかえるなら――

 人々が中庸の真逆を求める現代の日本社会は――
 中庸という観点からは、むしろ理想的な状況にあるのかもしれません。