マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

源頼朝の死因(続き

 源頼朝が、

  糖尿病 → 脳卒中 → 落馬 → 半月ほど臥床

 の経過で亡くなったのではない――
 とすると――
 どんな経過が考えられるのか――

 キーワードは、

 ――暗殺

 です。
 つまり、

  襲撃 → 落馬 → 負傷 → 半月ほど臥床

 の経過で亡くなった――
 ということですね。

 歴史小説などで、しばしば用いられるアイディアですが――

 純粋なエンターテイメントの発想を離れても――
 この経過には、それなりの説得力が備わっています。

 何といっても大きいのは――
 晩年の源頼朝には暗殺をされるだけの理由があったということです。

 30代まで流罪人として過ごした源頼朝には――
 歴史上の権力者ならば当たり前にもっているものを、ほとんどもっていませんでした。

 直轄の軍隊です。

 例えば――
 徳川家康などは、天下分け目の大戦(おおいくさ)として有名な関ヶ原の戦いに臨む際には――
 親藩や譜代の大名の分も合わせて、少なくとも7~8万人の兵士を直に指揮していました。

 このうちの半分ほどは、実は、戦略上の手違いで、関ヶ原の戦いに参加できなかったのですが――
 それにも関わらず、徳川家康が勝利を収めて自分の政権を建てることができたのは――
 そもそも、直轄の軍隊が他に例をみない規模であったからです。

 源頼朝の場合は、まるで状況が違っていました。

 徳川家康になぞらえたら――
 家来のほとんどが“外様”であって、“親藩”や“譜代”が極端に少なかったのですね。

 おそらくは、自分の妻(政子)の実家である北条家の軍隊を直轄のように指揮していたと考えられますので――
 ひょっとすると、北条家は“譜代”といえるような立場であったかもしれませんが――

 それでも――
 妻の父親(北条時政)は、娘の結婚を直前まで反対していたといいますから――
 その立場の実情は、「外様」のほうが近いでしょう。

 源頼朝が自由に扱えた軍隊は皆無に等しかったと考えられます。

 だからでしょうか。

 晩年の源頼朝は、自分の娘を天皇の后にしようとするなど、数百年前の平安貴族と同じような政治工作に奔走します。
 おそらくは、天皇家の権威で、直轄の軍隊をもたない自分の家――源氏の本家――を守るためです。

 この政治工作は、源頼朝を政権のトップに君臨させていた武家の者たちにとっては、裏切り行為に等しいことでした。

 よって――
 血気にはやった一部の者たちが、

 ――ならば、殺せ。

 と、手のひらを返した可能性は十分にあるのですね。

 源頼朝が落馬をして亡くなったのは――
 この政治工作が、ちょうど佳境に入った頃でした。

 タイミングとしては、ぴったりです。

 なお――
 暗殺を死因とする場合は――
 他に毒殺も考えられますね。

 相模川の橋供養に出かける前もしくは出かけている最中に、一服をもられた可能性は――
 たしかにあります。

 が――
 その可能性は、そんなには高くない、と――
 僕は思ってます。

 一つは――
 猜疑心が強く、つねに用心深く行動をしていたとされる源頼朝が――
 簡単に毒をもられるとは考えにくいこと――

 もう一つは――
 当時の技術で、そんなに強力な毒物が精製できたか、ということです。

 本人に気づかれないくらい少量の毒物を摂取させて死に至らしめるというのは――
 かなり高純度の毒物といえます。

 より考えやすい毒殺は――
 少量の毒物を月単位ないし年単位で継続的に摂取させて死に至らしめる――
 というものですが――

 もし、そうだとすると――
 それは半ば病死のようなものですから――
 落馬をして半月ほど臥床して亡くなるという劇的な経過を、やや説明しにくくなります。