マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

源頼朝の死に方:病死か暗殺か

 人は――
 よくわかっていることについては――
 ホントのことを書いたり、述べたり――

 ときには――
 ウソのことを書いたり、述べたりするものですが――

 よくわかっていないことについては――
 ホントのことを書いたり、述べたりするのは、もちろんのこと――
 ウソのことさえも、書いたり、述べたりすることが、なかなかできないものです。

 きのうまでの『道草日記』で――
 源頼朝の死因は、病死か暗殺か、よくわかっていない、ということを述べましたが――

 僕は、暗殺よりも病死の可能性のほうが、ずっと高いと考えています。

 根拠は『吾妻鏡』の内容です。
 鎌倉幕府の正史と目されている史料文献です。

 この『吾妻鏡』には――
 源頼朝の死の経緯が、リアルタイムでは、ほとんど書かれていないのだそうです。

 死後10年以上が経ってから、ようやく、

 ――落馬をして半月ほどで亡くなった。

 との記述が出てくるのだそうで――

 鎌倉幕府の祖とみなされている源頼朝の死の経緯が死後10年以上も記述されなかったというのは――
 かなり奇妙なことといえます。

 源頼朝の死に方が、あまりにも不名誉であったので――
 同時代での詳細な記述が憚(はばか)られたのではないか――
 との考えがあるそうですが――

 僕は、
(よくわからなかったから、書きようがなかったのであろう)
 と考えています。

 きのうまでの『道草日記』で述べたように――
 源頼朝は、病死とすれば、糖尿病から脳卒中を起こし、馬から落ちて半月ほど臥床して亡くなったという経過が考えられるのですが――

 その死の経緯は――
 当時の人々の知識や理解を遥かに越えていたはずです。

 もし、暗殺であれば――
 その死の経緯は、当時の人々にも十分に把握できたはずです。

 よって――
 その死の経緯を、『吾妻鏡』の筆者が、

 ――あまりにも不名誉である。

 と判断したのであれば――
 その不名誉な死に方を隠すために、何かウソのことを書いていたはずです。

 実際には――
 ウソのことさえ、何も書かれていないのです。

 よって――
 僕は、源頼朝は、暗殺ではなく、病死であったと考えます。

 少なくとも――
 当時の人々の知識や理解を遥かに越えた死に方であったことは、ほぼ間違いないといえるでしょう。