マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

同情できる“知ったかぶり”

 いわゆる知ったかぶりには――
 少なくとも2種類あると考えています。

 ひとつは、

 ――自分の知識の確かさや豊さに自信をもち、その自信を守ろうとする“知ったかぶり”

 で――
 もうひとつは、

 ――当然もっているべき知識がなく、そのことをとっさに隠そうとする“知ったかぶり”

 です。

 どちらの“知ったかぶり”も、しょせんは自己防衛の一種ですが――

 強いていえば――
 知識の自信を守ろうとする“知ったかぶり”よりは――
 知識の欠如を隠そうとする“知ったかぶり”のほうが――
 同情に値する、と――
 僕は考えます。

 なぜか――

 知識の獲得には限界があるからです。

 自分の好きな分野の知識は、わりと確かで豊かになりえますが――
 自分の嫌いな分野の知識は、どうしても不確かで乏しくなるものです。

 これは――
 おそらくは、ヒトの脳が人に課している原理的な制約です。

 つまり――
 人は、電算機の記憶装置のように、何でも正確かつ豊富に記憶する、ということができません。

 この制約をしっかりと認識していれば――
 自分の知識の不確かさや乏しさを恥じる愚かさに気づき――
 また、他人の知識の不確かさや乏しさを責める危うさにも気づきます。

 あるいは――
 この制約をいたずらに軽んじなければ――
 自分の知識の確かさや豊かさを誇る危うさに気づき――
 また、他人の知識の確かさや豊かさを妬む愚かさにも気づきます。