マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

北条氏のこと(2)

 鎌倉幕府2代執権・北条義時は――
 承久の乱を機に、自らの代で日本列島のほぼ全域を支配下に収めたにも関わらず――
 例えば、平清盛源頼朝、あるいは足利尊氏豊臣秀吉徳川家康といった歴史上の人物と比べ、軽視されがちである――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 いわゆる“大物”感が全くなくて――
 むしろ、“小物”として扱われることさえある、とも――
 述べました。

 姉の北条政子や子の北条泰時と役割を分担したために――
 北条義時個人には、全国区で通用するカリスマが生じなかったのではないか、とも――
 述べましたね。

 北条義時の“大物”感の欠如については――
 北条義時を輩出した北条氏それ自体の立ち位置も関係しているはずです。

 そもそも、北条氏は――
 鎌倉幕府の祖・源頼朝外戚として、政治の表舞台に出てきました。

 その後、北条時政が初代執権となって、鎌倉の武家の事実上の最高指導者の地位に上り詰めますが――
 少なくとも名目上は、あくまで、

 ――鎌倉幕府重臣

 の体を最期まで守り通しました。

 政治の表舞台に出て主役を務めていましたが――
 終始、舞台の袖の方に控えながら、主役を務めていたのです。

 その“わかりにくさ”が、北条氏の存在感を薄めている――
 ということもあるでしょう。

 そんな北条氏のことが――

 僕は――
 子どもの頃から好きでして――
 それなりの関心をもって調べているのですが――

 最も特筆すべきは――

 北条氏の政権の失い方だ、と――
 僕は思います。

 政権を失う直前まで、曲がりなりにも政権を保ち――
 一族の主だった者たちが、本拠地・鎌倉を守る戦いに参加し、敗れて自死しています。

 その滅亡の仕方は、壇ノ浦の戦いで敗れた平氏大坂夏の陣で敗れた豊臣氏に似ていますが――
 平氏は、政権を失って本拠地・京から逃れた末の滅亡でしたし、豊臣氏は、政権を失って10年以上が経ってからの滅亡でした。

 いずれも北条氏ほどに劇的ではありません。

 こうした観点から――
 北条氏は、日本史上ひときわ異彩を放っている一族である、と――
 僕は感じています。