マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

北条氏のこと(1)

 ――日本で武家として最初に全国を実質的に統治したのは、鎌倉幕府の北条氏である。

 との考え方を――
 きのうの『道草日記』で紹介しました。

 根拠は――
 きのうも述べた通り――
 承久の乱の前後の政権の変化です。

 承久の乱までは、天皇家や公家によって主導されていた朝廷が、日本列島の西半分をある程度は統治できていたのですが――
 承久の乱で軍事的に敗北を喫すると――
 朝廷は政権としての実質的な機能をほぼ完全に失います。

 最も象徴的な出来事は――
 当時の天皇家の事実上の当主であった後鳥羽上皇が、当時の武家の事実上の最高指導者であった鎌倉幕府執権・北条義時を、公然と、

 ――排除せよ。

 と命じたにも関わらず――
 逆に後鳥羽上皇が排除される結果となった――
 ということです。

 当時の人々の感覚では――
 おそらく天地がひっくり返ったような異常事態であったはずです。

 少なくとも――
 この観点からみれば――

 北条義時が日本史に与えた衝撃は――
 例えば、日本列島の東半分しか統治できなかった源頼朝や、近畿地方および近畿地方の周辺しか統治できなかった織田信長よりは強く――
 日本列島のほぼ全域を統治できた平清盛足利尊氏豊臣秀吉徳川家康といった人物らと同等の衝撃を与えたはずですが――

 実際には――
 そうではありませんね。

 北条義時は、どちらかというと評判の良くない人物として知られています。

 日本史では、大物ではなく、むしろ小物として扱われることが多いのですね。

 例えば――
 承久の乱で鎌倉の武家の諸将らに強固な結束をもたらしたのは――
 北条義時ではなく、その姉の北条政子の演説であったと伝えられています。

 また――
 承久の乱で実際に大軍を率いて京へ攻め上ったのは――
 北条義時ではなく、その子の北条泰時でした。

 北条義時は、姉の演説に救われ、子の将器に助けられ――
 自分は、ただ狼狽し、戦慄していただけであった――
 などといわれる始末です。

 実際には――
 たぶん、そうではなくて――

 当時、すでに還暦を迎えようとしていた北条義時は――
 鎌倉幕府創始者源頼朝の妻としての姉の権威を活用し――
 戦場で自由に動けるくらいに頑強であった子の体力を活用し――
 自らは、武家の最高指導者として、決断の責務を果たすことに専念しただけだ、と――
 僕は思うのですが――

 いずれにせよ――
 承久の乱北条義時が軍の総帥としての役割を姉や子へ巧みに割り振ったことで――
 北条義時に全国区で通用するような絶対的なカリスマが生じなかったことだけは確かです。

 承久の乱の後、鎌倉幕府の倒れるまでの100年ほどを、

 ――北条時代

 と呼ぶのに抵抗があるのは――
 この北条義時の“大物”感の欠如と無関係ではないでしょう。